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category: 旅行記~福井親征  1/1

福井親征~丸岡

福井親征。まずは丸岡城攻略ナリ丸岡城1576 織田信長の命令で、柴田勝家の甥勝豊により築城、勝豊が城主に。(4万5千石)1582 清洲会議により、勝豊に代わり、安井家清が城代。1583 柴田勝家滅亡。丹羽長秀の所領となり、青山宗勝(長秀女婿)が城代。1585 長秀死去 青山宗勝は秀吉の家臣にスライド(婿なのに・・・) 1600 青山宗勝とその子・忠元は、関ヶ原の戦いで西軍。当然改易。    結城秀康が入封、秀康家臣の今村盛...

福井親征~福井城+佐佳枝廻社(何て読む?)

福井到着。軽く大浴場で汗を流した後、宴会まで一時間ちょい。速攻でやって来た福井城址福井城御廊下橋御本城橋中入ってもOKと後で知った。福井城址1600年 家康次男、結城秀康が68万石で北ノ庄に入封。      旧北ノ庄城は焼失済1601年 天下普請による築城開始する。1604年 秀康が松平氏を名乗ることを許される。当然、御家門の居城に。     全国諸大名の御手伝普請で約6年の歳月をかけて完成。 1624年 藩主松平忠昌...

福井親征~北ノ庄

福井城址に続いてやって来たのがここ柴田勝家像鬼柴田、かかれ柴田、瓶割り柴田の異名。武骨な戦場人。直情径行で純粋。政治は出来ない。寝技は使えない不器用な人。信長と共に消えられれば、本望で幸せだったかも。本人も解ってたから、賤ヶ岳合戦後の前田利家との別れとなった。もっと評価されてもいいよね。北ノ庄城1575年 柴田勝家自らの縄張りによって築城を開始。1583年 賤ヶ岳の戦いに勝家が敗れ、妻・市と共に自害、城自...

福井親征~福井市内ぶらぶら

岡倉天心像。ずっと芸術家(彫刻家)だと思ってた。無知恥ずかし・・・近代芸術の啓蒙活動に尽力された方なんですね。足羽川日下部太郎とグリフィス像福井藩初の海外留学生太郎と、彼を指導、後に福井藩にやって来たグリフィス先生。これが縁で、福井市とニューブランズウィク(カナダ)は姉妹都市に。由利公正邸宅跡と坂本竜馬の歌碑この二人は相当ウマが合った。龍馬は公正と会見して帰京した直後に新政府綱領八策(いわゆる船中八策...

福井親征~一乗谷へGo!(プチトレッキング)

6/16日曜日の朝です。知り合い一人が前々日からブログ・Twitter・facebook完全沈黙。twitterでフォローしてて、つぶやき楽しみにしてる方も突然の沈黙。どちらも気になってしようが無かった日曜日。(前者は身内の不幸で、後者はニュースサイトで・・・・・えっー)福井駅西口⑨番乗り場8:00発の東郷線で朝倉資料館へ・・・・・・・9:00開館(汗)。周囲に何もない。武家屋敷は遠い・・・・・・気合入れて歩くことにした。パンフもない...

福井親征~一乗谷朝倉氏遺跡

復元跡/井戸の数スゲー朝倉館跡朝倉氏元々は兵庫県養父郡の豪族。南北朝時代に朝倉広景が主家斯波高経に従い越前入国。七代朝倉孝景は、応仁の乱での活躍。この機に本拠を一乗谷に移す。主家斯波氏、甲斐氏を追放、越前を平定。以後、孝景-氏景-貞景-孝景-義景と5代103年間に渡って一乗谷は越前の中心として繁栄。この間、京や奈良に貴族・僧侶などの文化人が下向、北陸の小京都と呼ばれた。若狭、近江にも領土を広げ、必然織田信...

福井親征~一乗谷復元された町並を歩く

復元町並入場料210円計画的に造られた道路を挟んで、塀に囲まれた重臣の屋敷が山際、川に近い方に武家屋敷や庶民の町家が位置づけられた様子をリアルに再現。発掘された塀の石垣や建物礎石をそのまま使用、柱や壁、建具なども出土した遺物に基づいて復元。これは貴重。どうせなら200メートルと云わず、1000メートルやればいいのに。「登城の時間でござるよ」9時開場だけど、観光客を迎える雰囲気ではなかった。売店/休...

福井親征~一乗谷反省会

朝倉氏がこの狭い山間を本拠に据え、100年余り。主家筋斯波氏・甲斐氏を駆逐し越前を制圧。一乗谷は小京都と呼ばれ、疲弊した京都から多くの文化人が移り住むまでに栄えた。越前から若狭、近江に勢力を伸ばしたものの、この当時、全国を席巻した一向一揆に苦しんだ。そこに僥倖というべきか、三好/松永から難を逃れた足利義昭がやって来た。義昭の斡旋で和睦することに。逆に本願寺と協力な同盟関係を築くことになる。ここまで...